沖縄の美術館で「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」を想う

佐喜眞美術館について

常設展「沖縄戦の図」

丸木位里・俊の描いた「沖縄戦の図」は、地上戦である沖縄戦を体験した方々の証言に基づき、その人々がモデルになって描かれたものです。

丸木夫妻は、「日本人の多くは体験した「空襲」を戦争と思ってしまっている。世界で起こっている戦争は地上戦なんだ。空襲と地上戦は全く違う。日本人は戦争に対する考え方は甘い、こういう国はまた戦争をするかもしれない。」と述べていました。

「沖縄戦の図」は、地上戦を国内で唯一体験した沖縄の人々に沖縄戦のことを教えてもらいながら戦争で人間がどのように破壊されるかを描きそのことをしっかり見て、戦争をしない歴史を歩んでいってほしい、という丸木夫妻の願いが込められています。

第三展示室には、丸木位里・俊の共同制作による 連作『沖縄戦の図』を1994年の開館以来、常設展示しています。

【常設展 展示作品】

下記の表は、左右にスライドさせて御覧ください。

タイトル サイズ(高さ×巾) 制作年
沖縄戦の図 400×850cm 1984年
久米島の虐殺(1) おきなわの図 180×180cm 1983年
久米島の虐殺(2) おきなわの図 180×180cm 1983年
亀甲墓 おきなわの図 180×180cm 1983年
自然壕(ガマ) おきなわの図 180×180cm 1983年
喜屋武岬 おきなわの図 180×180cm 1983年
集団自決 おきなわの図 180×180cm 1983年
暁の実弾射撃 おきなわの図 180×180cm 1983年
チビチリガマ 読谷村三部作 180×720cm 1987年
シムクガマ  読谷村三部作 180×720cm 1987年
残波大獅子 読谷村三部作 180×720cm 1987年

※「沖縄戦の図」の以外の作品は入替で展示しています。

【解説】絵になった沖縄戦

館長 佐喜眞道夫

「原爆の図」は、広島を見てしまった画家・丸木位里、丸木俊の私たちへの遺言である。「核時代」は人間が「類としての消滅」を意識する時代である。お二人は戦争のことをさら深く考えるために「沖縄戦の図」を描かれた。位里さんは、「原爆の図を描き、 南京大虐殺をかき、アウシュビッツを描きましたが、沖縄を描くことがいちばん戦争を描いたことになります」と述べられている。

制作にあたって、お二人は数年かけて、沖縄戦に関する本を160冊以上読み、学者や沖縄戦を専門にする人々にレクチャーを受けた。そして生き残った多くの人々と、それぞれの現場に足を運びそこで体験談を聞き、画家は多くの風景画を描いた。

そして1983年に 連作「おきなわの図」、翌年に巨大な「沖縄戦の図」(4m×8.5m)を描かれた。大胆な構図からくる迫力がすごい。 細かく見ていくと、人物の着物も、日用品を運んだザルも、欠けた茶碗の模様も、戦争中のものがていねいに描かれている。

沖縄戦を体験したおじいさんは、コップがわりに使用した貝を指しながら、「こんなことまで知っているはずがない。ほんとうにヤマトンチュが描いたのか」と驚いておられた。そこには戦争を語る時、徹底的に真実にもとづいて考えてゆく丸木ご夫妻の態度が貫かれている。

私は位里さんに、「先生の線にはとても大きなものを感じるんですが、どうしたらあんな線をひけるのですか」と聞いたことがある。位里さんは、「山を見るじゃろ、見るだけじゃダメなんじゃ。こっちが見ると向こうから何かがくるんじゃ。そのぶつかったところをなぞればいいんじゃ」とおっしゃった。「向こうから何かがくる」とは何をいっておられるのか、「名人列伝」などの世界にも聞こえるが、 私は位里さんが対象の本質と真正面からぶつかるまで、外観と内観をゆっくりとくり返しておられる姿を見たことがある。それは戦争で死んでいった人の根源の想いをつかみたいと、という位里さんの祈りのようにみえた。

ご夫妻は、ガイコツの山の中に自らの像を描き込まれた。 「戦争で死んでいった人々は生きている私たちに話をすることができません。だから死んでいった人々にかわって私たちがこんな絵を描くんです」とおっしゃる俊さん。このようにして描かれた絵の前に立つ時、私たちは戦争の真実にふるえあがると同時に、戦争と対峙する精神に勇気づけられる。苦しみが深ければ深いほどはげまされている様子をみながら、「沖縄戦の図」が今という時代に存在していることの大きな意味を思う。

丸木位里・俊_首里 石川文洋

撮影:石川文洋

【解説】記憶の空白

佐喜眞美術館 上間かな恵

蜘蛛くばにかかる 綾蝶あやはべるぐぅとぅ

何時いちんくぬ沖縄しまや 金網あみなか

沖縄芝居の女優、北島角子さんが詠んだ琉歌である。蜘蛛の巣を米軍基地の金網、それにかかる美しい蝶をこの沖縄にたとえた。58年目の慰霊の日を迎える沖縄で、この歌を詠まなければならない現実。私たちは、蜘蛛の巣にかかっていることさえ実感できない。 佐喜眞美術館は、丸木位里・丸木俊の共同制作「沖縄戦の図」を常設展示する私設美術館である。美術館の主なコレクションも、ケーテ・コルヴィッツやジョルジュ・ルオー、上野誠といった「人間・戦争・愛・希望」をテーマに描いた画家が中心となっている。世代や国境を超えて私たちの心をうつあの「沖縄戦の図」には何が描かれているのか。

丸木夫妻を困難な「共同制作」へと向かわせていったものは、広島の原爆体験で受けた、ぬぐい去ることの出来ない心の傷だった。彼ら自身は原爆被災者ではないが、原爆投下直後の広島で人間がどうなっていくのかを見てしまった画家でもある。そこで「語り尽くせないことを誰でもがわかる形」で描くことを決心する。「わたくしたちは描きながら、死んでいった人の心が胸によみがえり、死んでも死に切れぬ、何のために落ちてきて、その落ちてきた凄まじいものは何なのか。何も知らず、知らされぬまま果てなければならない納得しがたい不安と焦燥は、幽霊の形となって現出したのでありました」(丸木俊のことば)と、原爆の図「幽霊」を描き上げる。その後、原爆の図を十五部、「南京大虐殺」「アウシュビッツ」と膨大な戦争の図を描き続ける。丸木夫妻にとって、「沖縄戦の図」は、最終段階の図であった。

沖縄に滞在し、多くの生存者から証言を聞きながら連作「おきなわの図」「沖縄戦の図」「読谷村三部作」などを六年かけて制作した。そのなかでもひときわ大きな図が「沖縄戦の図(400×850cm)」である。座間味島、渡嘉敷島での集団自決、激戦地の本島南部、久米島での住民虐殺などが画面いっぱいに水墨で描かれ、見る者を圧倒する。よく見るとほとんどの住民には瞳が描かれていない。それはなぜか。

戦争の強い恐怖、自己消失の脅威などの体験を「戦争トラウマ」と呼ぶが、その記憶は言葉を持たず、物語とならない「死の刻印」であるとも言われている。位里は、「目でみるものは描き残しておくより外ありません」と生存者たちの五感に焼きついた記憶の断片を見つめようと心を砕いた。しかし、沖縄戦のように死の極限まで追いつめられた人間は、恐怖や怒りや痛みを感じるだけでなく、精神を保つために感情をマヒさせていく。目の前で行われていること、自分が行っていることが現実の様に思えなかっただろう。多くの証言の中に、位里は真実をみることを回避した空白の瞳を見たのではないだろうか。また、「沖縄戦の図」の中央には、瞳を持つ三人の子どもが描かれている。丸木夫妻は、何ものにもとらわれず、真実を見通す子どもたちの瞳に未来への希望を託した。

また、画面中央からやや斜めに空白の部分が残されている。俊はこの空白について「・・・撮影班の方が画面を写してぐるりと廻転して見せてくださった。描かない斜めの空間が見事であった。・・・この空間をいかさねば、はやる心を押さえ押さえて空間を残しました。けれど、まわりを描き進むうちにそのまま残すことは困難となりました。・・・娘はスパイ容疑のごうもんに狂い、日本兵の竹槍によって命を落としました。白い空間に娘を描き込むときの恐ろしさ・・・」と語っている。生存者の証言を聞けば聞くほど二人は、その語りの中に記憶の空白、記憶のマヒを感じたのだろう。空間を残そうと努める俊であるが、証言者の記憶の空白が、他の証言者の記憶によって埋められていくことが繰り返されると、二人は空間をそのまま残すことが困難になっていく。強烈な恐怖の記憶に共感し、感染していったのではないだろうか。

刻印されているのに語ることができない死の記憶。「沖縄戦の図」の空白の瞳と空間は、恐怖も怒りも痛みもとけ込んだまま見る私たちに無言で語りつづける。

聞く耳がなければ人は語らない。それと同様に、感じてくれる存在を無視しては芸術は成り立たない。無力感にいくどとなく襲われながらも、人間の感性の力を信じて描き続けた丸木位里・丸木俊。

瞳と空間にとけこんだ記憶を、想像力を喚起して見続けることが、戦争をくいとめる大きな力になっていくと信じている。

琉球新報 慰霊の日特集「沖縄戦の記憶 トラウマを超えて(1)-(3)」

2003年6月27日[水] 掲載

沖縄戦